本居宣長ノ宮 最新情報
四五百(よいほ)の森

そこには身のひきしまるような清らかで凛とした空気がいつも流れています。松阪発祥の生地、四五百の森。本居宣長ノ宮は常緑樹が繁るこの森厳な森に包まれるようにして鎮座しています。
本居大人奥墓がある旧山室村からこの森に遷座したのが大正四年。ながく本居神社として親しまれてきましたが、平成七年社号を本居宣長ノ宮と改称。学問の神として広く知られたお宮です。
神道はそもそも古代の自然崇拝を始源とする日本土着の信仰ですが、ここ四五百の森にもこころを癒す静かな自然のちからが濃密に存在しています。
松阪城趾下から本殿につづく桜並木は、春には薄紅色の参道を用意してくれます。夏は常緑の緑がまるで呼吸しているかのように涼しく、小鳥のさえずりや啄木鳥が木をつつく音以外は、不思議なほどの静寂。文字通り森閑とした秋の気配をなごませるのは、のどかな蜻蛉の群れです。
自然は四季折々さまざまなかたちや現象で、こころを癒してくれます。
とくに森には癒しのパワーが多量に内在しているといわれます。癒しは清浄につながり、清浄な場こそ、当宮にふさわしい環境といえるでしょう。四五百の森は、心身を洗い清める巨きな自然の装置でもあるのです。

本居宣長とは

ご存じのとおり、本居宣長は松阪が生んだ江戸期を代表する国学者です。著作「古事記伝」は宣長が三十五年かけて完成させた古事記の注釈書で、国学者の研究成果では最高峰とされています。
宣長は日本の歴史をふりかえり、日本人のアイデンティティを深く探求した人でした。「もののあはれ」という考え方は日本人固有の感性の発見として示唆に富むものであり、全くの独創です。それまで(江戸中期まで)漠然と習俗化していた土着信仰に正当な思想性を与えたのも宣長の大きな成果で、その影響は私たち現代人にも少なからず及んでいます。
八百万の神の前で常に謙虚であろうとする日本人の精神性にしっかりとした支柱を打ち立てた大思想人は、いま四五百の森に静かに祀られています。
享保15年(1730)
五月七日、松阪に生まれる。書籍目録(経籍もうろく)は宣長が16歳の頃から書き始め、四千種余りが記載されている。
宝暦2年(1752)
医学を学ぶため京都に遊学する。遊学中は医学の他に、堀景山の塾において、五経 の素読、史記、左伝、漢学なども修学する。
宝暦8年(1758):京都遊学からの帰郷後、医業を興すとともに、歌論「拝慮小舟」を著し、「もののあはれ」という考え方を世に問う。
宝暦13年(1763)
歌論「石上私淑言」、文学論「紫文要領」を著す。この年、古学の大家である賀茂真淵と初めて対面する。 世にいう「松阪の一夜」である。これにより古事記の研究が進められることとなり、後に「古事記伝」が完成する。
寛政元年(1789)
自学の普及活動を精力的に行うようになり、講義するたびに門人も増やしていき、やがて世間に広く知れ渡るようになる。
寛政10年(1798)
「古事記伝」を脱稿する。
享和元年(1801)
九月二十九日、没す。